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夏の思い出

2021年08月20日(金)

6年前の夏、私は京都府舞鶴市で小学6年生の長男と少年野球で白球を追いかけていました。

土日の度に朝早く妻に作ってもらった弁当持って二人で出かけ、妻も途中で合流し、日没近くに帰宅する。それは2月の雪が降る頃から、11月まで続きました。

練習試合を含めて年間70試合ほど予定が組まれ、子供の学年が上に上がるに連れて親の役割りも増え、父親はチームの野球用具の運搬や試合の審判にあたります。試合時間は80分ですが、夏になると気温が35℃以上になり、審判で立っているだけで意識が朦朧とします。対戦チームの力が互角なら、チェンジになり給水もあるのですが、チーム力に差がある時は、一回の表だけで、20点以上も入り、試合時間のほとんどを使ってしまうこともあります。息子のチームは人数が少なかったため、塁審のみならず、球審もさせて頂きました。

ストライクかボールかファールかデッドボールか、更にはボークやインターフェア、インフィールドフライ等もちろんアウトかセーフかも含めて瞬時に判断してコールしなければなりません。あやしい判定には、審判に向け容赦なく監督や父母から厳しい声が飛びます。子どもの事となると皆真剣なのです。プロ野球の審判でも間違えるのに、それよりも大変じゃないかと思うこともしばしばでした。中には野球をあまり理解されておらず新米審判のお父さんが、ジャッジをしないといけない場面で『今のは、見えなかったので、わかりません』と正直にコールされた方もいました。

息子と同い年で、対戦相手に一際でかい体格の子どもがいました。彼を初めて見たのは4年生の時、ある小学校での試合、ライト側にある校舎までは60mくらい、その校舎の三階屋上にホームランを打ち放ったのです。それが4年生と聞かされ驚きました。その後も息子と同一リーグでの対戦が続きました。彼はピッチャーでもあり、6年生になる頃は、120キロくらいの豪速球を投げていました。何度か球審をしましたが、ファールチップが当たらないかと恐ろしかったのをおぼえています。

彼は、甲子園出場、プロ野球選手の夢を追いかけて努力し、今夏愛知県代表の愛工大名電(イチロー選手の母校)の主将として全国高等学校野球選手権大会 甲子園出場を果たしました。

息子も高3になり、野球で培った体力を基に目標へ向け猛勉強中です。
夢は見るものではなく、かなえるものと言われます。

芳澍女学院情報国際専門学校の階段にはOne is never too late to learn(学ぶのに遅すぎるということはない)との標語も掲示されています。素敵な夢・目標を持って生きる。すべてはそこから始まることを改めて教えて頂いたように思います。